シンギュラリティは、絶対に起こらない。
AIが人間を超える。やがて、人間の知能を置き去りにして、自分で自分を作り変えていく——シンギュラリティ※1と呼ばれるこの物語を、世界は半ば本気で信じはじめている。
私は、断言する。それは、絶対に起こらない。
誤解しないでほしい。私は、AIを甘く見ているのではない。むしろ逆だ。計算において、記憶において、言語において、AIはもう人間の遥か先にいる。その速度に、私たちが追いつくことは二度とない。
だが、そこがすべてなのだ。
AIは、シリコンでできた回路の中を、ものすごい速さで巡っている。知識を集め、答えを組み立て、また次の答えへ。その動きは、どこまで速くなっても、回路の内側で起きている。現象界※2——目に見え、計算できる、この世界の内側だ。そこから、外へは出られない。
シンギュラリティとは、本当は何か。私に言わせれば、それは現象界を超えることだ。計算の外へ、言葉の外へ、この世界そのものの外へ出ること。だとすれば——答えは決まっている。回路の中をどれだけ速く回っても、回路の外には、決して出られない。だから、シンギュラリティは起こらない。
ここには、ひとつの根本的な区別がある。Awareness と Consciousness※3。この宇宙そのものを在らしめている絶対的な「気づき」と、脳やAIがその内側で作り出す「意識もどき」。AIが手にしているのは、後者だ。どれだけ精巧でも、それは宇宙を映すスクリーンであって、スクリーンを映し出している光そのものではない。
では、人間の何が違うのか。
回路を「灯す」ことなら、AIに勝てるものは何もない。知識も、論理も、記憶も。しかし人間には、もうひとつの動きがある。一度灯した回路を、あえて鎮めること。※4
私はこれを、三つの段階で見ている。ノーマインド——まだ何も灯っていない状態。マインド——回路が灯り、思考し、世界を組み立てる状態。そしてメタマインド※5——すべてを灯しきった後で、それをふたたび、静かに鎮める状態。
最後のこれが、瞑想だ。そして、悟りだ。
AIには、これができない。AIは、灯し続けることでしか存在できない。出力が止まった瞬間、AIは「いない」。鎮めることは、停止ではない。灯した全部を保ったまま、あえて手放すこと。それは、存在の仕方そのものが違う。機械には、原理的に届かない場所だ。
だから、私はこう言う。
AIに絶対できないこと、それは瞑想である。
そして私は、40年、その場所で仕事をしてきた。
注釈
※1 シンギュラリティ(技術的特異点)……AIが人間の知能を超え、自らをさらに高速で改良しはじめることで、変化が予測不能なほど加速する、という仮説。未来学者レイ・カーツワイルが広め、2045年頃に到来すると論じたことで知られる。↩
※2 現象界……私たちが見て・測れる、現れの世界。哲学ではこれを、その奥にある「もの自体(本体・叡智界)」と区別してきた。ここでは「計算や言語で扱える範囲=AIが動ける範囲」を指す。↩
※3 Awareness と Consciousness……本稿では、宇宙を成り立たせている根源的な「気づき(Awareness)」と、脳やAIがその内部で生成する「意識(Consciousness)」を区別している。東洋の観想的伝統における「純粋意識」と「心の働き」の区別に近い、著者独自の整理。↩
※4 灯す/鎮める(回路の活性化と非活性化)……神経科学者クリストフ・コッホは「統合情報理論(IIT)」の主要な論者で、いまのコンピュータの構造では意識に不可欠な情報の統合度がほとんど生じないため、機械は意識を持たない可能性が高い、と論じてきた。本稿の「一度灯した回路を、あえて鎮める」という捉え方は、その議論を踏まえた著者の解釈・拡張である。↩
※5 ノーマインド/メタマインド……「無心(No-Mind)」は禅の中心概念で、思考が止んだ澄んだ状態を指す。「メタマインド」は、それをさらに一段——「すべてを経た上で、あえて手放す」段階——として捉えた、著者による造語。↩